2 両親が教祖によって結ばれるまで。

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はじめに

ところで、両親は同じ宗教を信仰してたとはいえ、かなり離れた場所で生活していたのだ。
互いのことも全く知らない。そんな二人が何故出会い、結婚したのか。

その宗教が最も重んじていたものは「家族」だった。
とはいっても、非常に極端な家族観を持つ。
ベースはキリスト教なのだが、聖書に特異な解釈を加え独自の教義を展開している。
「神がこの世界を作った後、人類始祖が犯した罪によって人間は堕落した。
その結果、神の意に添わぬ悪魔に支配された人間達がはびこるのがこの世界である」
という世界観がまず前提として存在する。
よって、この悲しみと悪に満ちた世界と人間を救い、正さねばならない。
色々な要素はあるものの、真っ先に正さねばならぬのは「家庭」だと主張する。
堕落した人間が本来の神に近い存在に戻るためには、神の意に沿った「理想家庭」を作り、
「神の血統」に転換された子孫を永劫繁栄させていく必要がある、としているのだ。

しかし、堕ちた身の人間が自分の好みで相手を選んでは意味がない。
自分勝手に相手を想うことは、偽りの愛である。
あくまで「神」の意思が介在した愛や結婚でなければ救いはないのだ。
よって「より一層神に通じた教祖が相手を決める」という独自の結婚システムがあり、それ以外の結婚はけして認められなかった。
自由恋愛は堅く禁じられており、時代遅れもいいところの処女厨…もとい、純潔至上主義。
婚前性交渉=即地獄行き。恋愛感情を抱くことすら罪。
もちろん同性愛も罪。ついでに酒・タバコも全面禁止。

恋愛と性に関しては、新興宗教の中では最も厳しい部類に入るだろう。

(実際はうら若き男女が一つ屋根の下寝食を共にして何も起きない方がおかしいので、
恋愛関係になり駆け落ちするカップルも少なくなかったようだがwwwwwクソワロス)

個人的見解になるが、わたしがこの宗教の異常性を最も感じるのはこの部分だ。
そもそも人を好きになったり好きな人とセックスしたいと思う気持ちはごく自然のものである。
おまけに結婚など現代日本においては個人的問題。
その不可侵領域に土足で介入し、人を想う気持ちまで重罪として禁じ抑圧する点に、信者を思うままにコントロールしようとする魂胆や
宗教としての不健全さが露呈されている。
抑圧された思いは必ず別な方面で歪みを生じるからな。

さてと、両親の話に戻ろう。

縁もゆかりもましてや会ったこともない二人だったが、ある日突然教祖によって「夫婦」として結ばれた。
彼らにとって理想の家庭を築くための第一歩として喜ばしいことのはずだったが、正直な所、出会った当時の互いの印象は最悪だったようだ。

何せ「本来なら最も嫌いなタイプ」と漏らすほどの水と油のような性格だ。
父は複雑な家庭環境からか元の素因があってか、とにかく風変わりというか常軌を逸する言動に出る人だった。
母はとにかく純粋で男女関係に潔癖。最初の数年間は父の顔を見ることも嫌だったそうだ。

そんな二人がはじめからうまくいくわけがない。
二人とも「何でこんな人と…」と悩んだようだ。
ただ、最も敬愛する教祖が選んでくれた相手である。
この結婚を破棄することは教祖のみならず自らの信仰をも裏切ることになるのだ。
熱心な信者だった彼らは素直に教祖の選択を受け入れた。

両親を率直に「凄いな」と思うのは、これほどまでに生理的に受け付けない相手と30年間離婚せずに添い続けたことだ。

その上彼らは長年の葛藤の末に、何者にも壊せぬ絆を手に入れた。
とても仲が悪く、わたしが物心ついた頃には包丁を向けるほどの夫婦喧嘩が日常茶飯事だった両親が
今では「とても愛し合っている」という。
その言葉に嘘偽りはない。
だが、彼らを結んでいるものは普通の愛情なんて生ぬるいものではない。

いくたび家庭崩壊の危機に陥ろうと、二人を唯一繋ぐ信仰心と服従心にすがり関係を維持してきた。
その度に両親の信仰心は強固になっていった。
そしていつの間にか、互いになくてはならない存在になっていたのだ。
まさに幾多の戦を共に乗り越えてきた「戦友」という表現が相応しい。

ひとえに信仰が産んだ結束なのだと思う。

そんな両親を見て育ってきた身としては、ただただ
「宗教って凄いんだなあ。人間を180℃変えるんだな。」という感慨を禁じえないのだ。

もちろん、良い意味でも悪い意味でも。